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思い出すこと=髑髏とメメント・モリ(死を忘れるな)(3)

2021.03.06

 

思い出すこと=骸骨とメメント・モリ(死を忘れるな)(3)

                                     武本一美

2.髑髏の意味
 なぜ、信長が黄金の髑髏を作ったかについては、その武将を讃える為の行為であるとか、敵将の供養のためとかいう説もあるが、「信長公記」の記載からは、そのような気持ちは読み取れない。「信長公記」には、「各御謡・御遊興 千々万々 目出たく 御存分に任せられ」とあり、黄金の髑髏を見た酒宴の出席者たちが歌い騒ぎ、敵が倒れたことを喜びあっていることがわかる。 

 匈奴も長年戦ってきた月氏の王の首から髑髏杯を作ったのであるから、当初の髑髏杯の目的は復讐心を満足させるためであったのだろう。
 しかし、漢書匈奴伝によると、王昭君を妻にしたことで知られる呼韓邪単于(こかんやぜんう)は、漢と同盟を結ぶのであるが、その時の儀式に月氏王の髑髏杯が用いられている。月氏の敗北から約120年後のことである。月氏王の髑髏杯は、1世紀以上伝えられ、重要な儀式に使用されていたのである。こうなると、もう復讐心の満足とは言えず、敵将の勇気に対する崇敬や髑髏の霊力が意識されていたと思われる。
儀式に際して髑髏杯を使うことは、匈奴では、慣習となっていたようである。淮南子巻11に「胡人弾骨」とあり、高誘がこれに註して「胡人之盟約置酒人頭中 飲以相詛」(詛は、誓う)とする。胡人が盟約を結ぶときは、髑髏杯で互いに酒を飲むという意味である。そして、胡人とは、淮南子が成立した前漢期は匈奴のことを指す。匈奴は、盟約を確かなものにするため髑髏の霊力を頼ったのである。

 イラン系と言われるスキュタイ人は、「最も憎い敵の首だけ」を髑髏杯にするのであるから、やはり復讐心に基づく髑髏の使用だろう。しかし、同じくスキュタイ系と言われるタウロイ人の習慣として、次の話が出てくる(ヘロドトスの「歴史(中)」(岩波文庫)p62)。「敵を捕らえたものは、その首を刎ねて家へ持ち帰り、長い棒に刺して屋上高く―たいていは煙突の上に掲げておく。この首が守護者として屋敷全体を見張ってくれるように。高く掲げておくのだと彼らはいっている」。これは、髑髏ではなく生首だが、長く掲げておけば髑髏になる。ここでも髑髏に何らかの霊力を認めているのである。ずっと後のイスラムに起源をもつ髑髏の海賊旗ジョリー・ロジャー(Jolly Roger)は相手を脅す意味が強いが、やっていることはよく似ている。

 チベット系と言われるイッセドネス人の髑髏使用は、祖先の髑髏であり礼拝の対象であるから、かなり異なっている。死者を忘れないということや家系の誇りや髑髏の霊力などと関係しそうである。
 チベット人が人骨を器物にして使用したという記録が最も多い。これは、チベット仏教が、人骨、特に高僧の人骨を聖なるものと考えたことによる。カパーラ(あるいは、カバラ)という髑髏杯は、「有と無の分別を断つ」として儀式の際に用いられる。周囲に金属飾りがなされ、一見髑髏杯とは分からない。ダマルという髑髏の太鼓、大腿骨の笛、人骨の数珠(これもカパーラという)などが作られていた。そして、現在も使われているようである。ただし、チベット系と言っても7世紀初めから9世紀の吐蕃には、髑髏使用の記録がないので、チベット人がいつの時代もそのような風習を持っていたかはわからない。

 支邦の趙襄子が智伯の頭骨から髑髏杯を作ったのは、「趙襄子最怨智伯」とあるように智伯に対して限りなき怨恨を抱いていたからとされる。また、史記巻43趙世家には、趙襄子が酔った智伯に酒を首にかけられたとか、智伯が趙襄子を太子の地位から落とそうと画策したというエピソードを掲げ、趙襄子の智伯に対する恨みが骨髄に徹していたと解釈している。おそらく髑髏の使用する風習が一般的でなかった古代支那人は、よほどの恨みがなければ、髑髏杯を作ったりしないと考えたのだろう。

 髑髏をめぐっては、怒り、復讐心、怖れ、愛情・・・様々な感情が渦まき、それが髑髏に不思議な力を与えている。髑髏の使用は、復讐心の満足のためであったり、髑髏の霊力による儀式用やお守りとしての使用であったりしたのである。髑髏の意味が、敵の死を忘れ敵が死んでいないかのように復讐し続けることであったり、親族の死を忘れないためであったりすることが、すこし不思議ではある。しかし、それ以外にも、中世以降の西欧ではメメント・モリ(memento mori死を忘るな)のための使用が多かった。

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