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世界は救いで満ちている。

2020.03.07

 

 私の夫がこれまでの人生で感じた内容をこれから少しずつ私のブログでも紹介させて戴きたいと思います。
 以下の文章は、夫が豊郷病院の会誌に発表した「世界は救いで満ちている。」という題名の文章です。
なお、豊郷病院からネット上に転載することについての了承は頂戴しております。
            記
 題名:「世界は救いで満ちている」
                         武本一美

 今まで3度、癌の手術をした。大腸がん、大腸がん、小腸がんだ。幸いと言うべきか不幸にもと言うべきか、転移ではなくすべて新しくできた癌だ。研究協力ということで、京大で無料で調べてもらったところ、遺伝子に欠陥があり、癌ができやすいことが分かった。

 最初の手術は、46歳の時だった。
その半年ほど前、私の診察が終わり、退室しようとしていた女性の統合失調症の患者さんがふと振り返り、「先生、検査受けてね。」というと静かにドアを閉めた。念のため書いておくと、私は精神科の医師である。父が何度も大腸がんの手術を受けていたので気にはしていたが、40代の半ばではまだ早いと思いそのままにした。数か月後、同じ患者さんがやはり診察終わりに、「先生検査した?」と聞いてきた。「ごめん、まだしてない。」と答えると、「モオーッ、ほんとに検査してね。」といって患者さんは診察室を後にした。私は、それでも2-3ヶ月検査に行かなかった。しかし、ある時思い立って大腸ファイバーを受けてみた。大腸がんだった。
京大病院の古めかしい外科病棟に入院し、検査、手術と考える間もなく日は過ぎて行った。手術が終わり、本当に苦しい3日ほどがすぎるとただ傷がふさがるのを待つ日々になった。時間は有り余るほどあった。一人病室で、「死ぬかもしれないな。本当に死ってあるんだな。」とぼんやり考えていた。
その時、不思議なことに気づいた。アラビアンナイトを読もうと本を開くと、最初の行に「苦しみの続かないことは,楽しみのそれに同じ」と書いてあった。あたかも、私に諭すように。雑誌を開くと、「莫妄想(まくもうぞう:妄想するなかれ)」という禅語があった。これも、「生きれるのか、死ぬのか」などと考えても仕方のないことが頭の中をループしていた私に向けられているように思えた。看護婦さんが私の体調を聞く質問の中にも、テレビでタレントが何気なく言った一言の中にも、救いの言葉が隠れていた。
昔ビートルズと人気を二分していたサイモン&ガーファンクルの代表曲「サウンドオブサイレンス」を思い出した。その中に下のような歌詞があったからだ。

"The words of the prophets are written
on the subway walls and tenement halls”
(預言者の言葉は、地下鉄の壁や安アパー
トの廊下に書かれている。)

ほんとにこの歌詞の通りだったんだと、私は実感した。
 やがて、事態はさらに好転(悪化?)した。この世界は、救いで満ちていた。病室の窓の外を鳥が飛ぶ、草が伸びる、そんなことがそのまま救いだった。最後には癌すらも救いのように思えた。
 そんな救いに満ちた世界に私がいたのは、どれほどの期間だったろう。短くとれば3日ほどで、長くとれば数ヶ月だろうか。退院し日々の生活が始まる中で、段々と救いの言葉を見つけることは難しくなって行き、数か月後には救いの世界を考えることもなくなった。
 
 それから8年後、遺伝的に致し方ないことだが2度目の癌がやってきた。同じ大腸がんだった。癌の告知を受けたとき、もちろん嫌であったし不安でもあったが、どこか、かすかにうれしい気持ちがあることに気が付いた。それは、またあの世界に行けるかもしれないという期待によるものだった。癌になっても、こんな気持ちになることがあるものかと意外だったことを覚えている。
 任天堂の元社長山内氏が、75億円を寄付してできた京都大学病院の積貞棟(せきていとう)に入院した(積貞棟という名は、山内氏の祖父母の名前に由来しているそうだ)。いわゆる癌病棟である。以前の古びた病棟とは異なり、すべてが真新しかった。エレベーターホールは壁面が広いカラス窓で、入院した六階からは東山が間近に見え、その西に広がる京都市街までも見渡すことができた。
手術は、一回目より楽に感じられた。
 ただ、あの救いに満ちた世界に入ることはなかった。遺伝的な問題があることがわかったので、母校にデータを提供しようという意識もあり、やや過剰なぐらいの検査を欠かさなかった。その結果、見つかった癌はごく初期のもので、前回ほど考え込むことがなかったためかもしれない。

(続く。)

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