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髑髏(ドクロ)とメメント・モリ(死を忘るな)(2)      

2021.03.05

 

思い出すこと - 髑髏(ドクロ)とメメント・モリ(死を忘るな)-その2
                                  武本一美

 髑髏を何らかの器物とすることが、思ったより広く行われていたことに驚き、調べてみたこともあった。
 古くは、イッセドネス人に関する記録がある。イッセドネス人は、父親が死ぬとその髑髏に金を被せ礼拝の対象としたと、同じくヘロドトスの歴史に記されている。イッセドネス人は、古代ギリシャ時代に北方アジアに住んでおり、チベット系ではないかと言われる。そしで、チベット人は、髑髏杯はもとより、人骨からさまざまの器物を作っていたという記録が数多く残っている。
古代の支那人も、BC456年、晋の趙無恤(趙襄子)が、同じく晋の智瑶(智伯)の頭部を盃にしたという記載が、史記、戦国策、韓非子、呂氏春秋などに見られる。例えば、戦国策趙襄子の條には、「趙襄子最怨智伯 而将其頭以為飲器」、史記刺客伝 巻86には、「趙襄子最怨智伯 漆其頭以為飲器」とある。趙無恤は智瑶の頭骨を、信長と同じく漆塗りにして飲器としたようだ。
5~6世紀にモンゴル高原を支配した遊牧国家柔然(匈奴と同一民族ともいわれる)も髑髏杯を用いていた。モンゴル帝国成立以前の時代にモンゴル高原西北部にいたトルコ系のナイマン族は、敵将の髑髏を銀器の中で保管したと記録にある。
 髑髏の使用は、草原の道を往来したチベット人、トルコ人、モンゴル人には、風習と言えるまでに一般的であり、日本や中国では、信長と趙無恤、加えて元代の呉元甫ぐらいしか記録なく、例外的なものであった。

 西欧においては、ずっと時代は下って、16世紀に成立したカプチン・フランシスコ修道会のサンタ・マリア・デッラ・コンチェツィオーネ教会納骨堂では、修道士の髑髏が装飾的に使用されている。類似の墓所は、ヨーロッパ周辺には多数見られるが、有名なのはパリのカタコンベ(地下墓所)だろう。これは、18世紀後半、墓地不足からそれまでの遺骨を地下採石場に集めたもので、やはり髑髏や人骨が装飾的に積み上げられている。
 また、16世紀から17世紀ごろ、ヨーロッパ北部でヴァニタス(ラテン語: vanitas)と呼ばれる静物画のジャンルが成立する。ヴァニタスでは、さまざまな象徴的な物品が画かれるが、一番目を引くのは髑髏である。髑髏は、机の上に置かれていることが多く、人の死の確実さ、死すべき運命を象徴している。ヴァニタスとはラテン語で「空虚」「むなしさ」を意味する。西欧絵画にはキリスト教的な意味が求められるが、ヴァニタスは、旧約聖書の「コヘレトの言葉」の中の「Vanitas vanitatum, omnia vanitas. 空虚の空虚、すべては空虚。」を意味するとされた。
 ヴァニタスは髑髏そのものの使用ではないが、ヨーロッパの修道院などでは、修道士が死を忘れないために、絵そのままに髑髏を身近においていたという。

註1)「信長記」の記載には、「頸」としか書かれていないが、この宴が行われたのは浅井・朝倉を討ちとった3カ月ほど後の事であるので、髑髏であろうと思われる。

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