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日弁連の自画自賛

2010.09.26

 

 日弁連の旧主流派(=司法改革推進派)は、反省をするどころか、「司法改革により、司法過疎解消や被疑者国選の実現や裁判員制度の実現など良い面があった。」と平気で言われます。
 
 まず、司法過疎解消の問題は、弁護士人数の適正配置の問題ですので、これまでの合格者数でも達成することはできました。また、司法過疎が解消したというのは表面的な達成感のみによる評価であって、その内実は酷いものです。簡単に説明すると司法過疎地域の過払案件は大量に処理されましたが、それ以外の事件はどうでしょうか。更に言えば、司法過疎における過払案件の一掃とも関連しますが、弁護士の質の低下の問題も(ここでは詳しくは申しあげられませんが)、実際に存在する問題です。
 従って、表面的に司法過疎地域に弁護士が行き渡ったと喜んでばかりもいられません。

 また、被疑者国選の実現についても、これまでの人数で達成可能でした。
 被疑者国選が始まる前には、「沢山件数が来てえらいことになる。」と各弁護士会では、あたかもテーブルをひっくり返したような大騒ぎをしていました。でも、被疑者国選が始まる前にも、被告人国選はそれまでの弁護士数で全て対応していたわけですから、私は、被疑者国選が始まったといっても、それまでの被告人国選へ取組む時間が伸びるだけで大変なことになるはずがないと思っていました。その点は、「法曹人口問題の一考察」にも書いてあります。そして、実際その通りでした。

 私などは、被疑者国選が始まる前、伊丹支部の数名の弁護士で被告人国選を全て担当するため、1人あたりの弁護士が取り組む被告人国選は年間数十件にのぼっていました。それが、被疑者国選が実現するということで、50名いる尼崎支部の弁護士と共同で刑事弁護を担当することになったことから、被疑者国選が始まる前よりも1人当たりの被疑者・被告人国選担当事件数が減り、以前よりも負担が少なくなっています。その分、尼崎支部の先生方は逆に負担が若干増えいるのかもしれませんが、それ以上に弁護士の数が激増しているので、大した負担増ではないと思います。

 裁判員裁判に至っては、私も実際に裁判員裁判の刑事弁護を担当しましたが、弊害あるのみの制度であって、これが司法改革の手柄ということには到底同意できません。裁判員裁判は、刑事被告人にとっても裁判員にとっても裁判官にとっても不幸な制度で、刑事裁判の改悪に他ならないと私は思っています。その理由は、著書が沢山出ていますし、長くなるので、ここでは繰り返しません。

 要するに、どれをとっても「司法改革は素晴らしかった。司法改革のお陰で司法制度が良くなった。」などとはお世辞にも言えないのです。

 にもかかわらず、「司法改革は素晴らしかった」として、未だに自画自賛を繰り返す弁護士に未来はないでしょう。

 問題は、これら自画自賛をする弁護士がしっぺ返しを受けるのではなく、他の弁護士や市民が被害を被るのですから、本当にやりきれないということです。


 



 

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